カーボンプライシング(Carbon Pricing)政策の背景には、気候変動への対応という緊急のグローバルな課題があります。気候変動は、二酸化炭素を含む温室効果ガス(GHG)の大気中への排出によって引き起こされると広く認識されています。これらの排出は、化石燃料の燃焼、森林破壊、工業プロセス、農業活動など、人間の活動によって大きく増加しています。気候変動の影響は、極端な気象条件、海面上昇、生態系の変化など、世界中で深刻な問題を引き起こしており、これに対処するために国際社会は様々な取り組みを進めています。端的に言うとカーボンプライシング制度の主な目的は、温室効果ガス排出の削減を経済的に促進することにあります。排出者が排出によって引き起こされる環境への損害を金銭的に負担することで、排出コストを経済活動に反映させます。排出にコストがかかることで、企業や個人に排出削減や効率的なエネルギー使用、再生可能エネルギーへの投資を促し、長期的な排出削減目標に向けて、低炭素技術やクリーンエネルギー技術の開発と普及が加速すると考えられています。カーボンプライシング制度が作られるまでカーボンプライシングの考え方は、1992年の国連環境開発会議(地球サミット)で採択された国連気候変動枠組み条約(UNFCCC)や、1997年の京都議定書、2015年のパリ協定など、国際的な気候変動対策の枠組みの中で発展してきました。これらの合意は、温室効果ガス排出の削減と気候変動への適応を国際社会の共通の目標として設定しています。カーボンプライシング制度の背景と目的は、気候変動というグローバルな課題に対する効果的かつ経済的な対応策を提供することにあります。世界中で温室効果ガス排出の削減を促進し、持続可能な未来への移行を加速するための重要な政策手法となっています。今日では、欧州圏各国とアメリカ、カナダ、そして日本などの国々が炭素税や排出量取引制度(ETS)など、カーボンプライシングを気候変動対策の一環として導入しています。備考:主要国の一部のみを抜粋カーボンプライシングの目的は、温室効果ガスの排出に対する経済的なインセンティブを提供することにより、気候変動対策を促進することです。企業や個人が排出に対するコストを意識することで、エネルギー効率の向上、クリーンエネルギーへの投資拡大、排出削減技術の開発など、炭素排出を減らすための行動を促します。カーボンプライシングには主に以下の二つの方法があります。炭素税排出される二酸化炭素の量に応じて直接税を課す方法です。この税金は、化石燃料の生産者や消費者に対して適用され、燃料の炭素含有量に基づいて計算されます。炭素税は、排出コストを内部化することで、化石燃料の使用を減らし、再生可能エネルギーへの移行を促進することを目的としています。排出量取引制度(Emissions Trading Systems, ETS)政府が温室効果ガスの排出量に上限(キャップ)を設定し、その範囲内で排出権を企業間で取引できるようにする方法です。このシステムでは、排出権の市場が形成され、排出削減に成功した企業は余剰の排出権を市場で売買できます。これにより、排出削減のコスト効率性が向上し、全体としての排出量の削減目標を達成することができます。東京都、埼玉県(さいたま市)の排出量取引制度日本では、国全体としての統一された排出量取引制度(ETS)は導入されていませんが、地方自治体レベルで独自の排出量取引制度を設けている例があります。特に注目されるのは、東京都とさいたま市による制度です。これらの地域的な取り組みは、日本における温室効果ガス排出削減の努力の一環として重要な役割を果たしています。東京都は、2010年に日本で初めて地域レベルの排出量取引制度を導入しました。この制度は、東京都温室効果ガス排出削減対策の一環として設計され、大規模な事業所を対象にしています。制度の対象となるのは、年間のエネルギー消費量が一定基準を超える事業所や施設です。これにはオフィスビル、商業施設、工場、ホテルなどが含まれます。東京都は、この制度を通じて、都内のCO2排出量を削減し、地球温暖化対策に貢献することを目指しています。対象となる事業所は、基準年度に比べて排出削減を義務付けられており、削減目標を達成できない場合、他の事業所から排出権を購入するか、クレジット(再生可能エネルギーなどの利用による排出削減分)を利用して差し引く必要があります。一方でさいたま市は、2011年に「さいたま市地球温暖化対策実行計画」の一環として、独自の排出量取引制度を開始しました。この制度は、中小規模の事業所を対象としており、東京都の制度とは異なるアプローチを取っています。まず中小規模の事業所や施設がこの制度の対象です。さいたま市の制度も、市内の温室効果ガス排出量の削減を目指しており、参加事業所はエネルギー使用量の削減や効率化を通じてCO2排出量を削減することが求められます。削減目標を達成した事業所は、削減達成証書を受け取ることができ、これを市内外の他の事業所に売買することが可能です。これらの地方自治体による排出量取引制度は、日本国内での温室効果ガス排出削減に向けた取り組みの一環として注目されていますが、この制度はあくまで地域レベルでの取り組みであり、日本全体としての統一された国家レベルの排出量取引制度の導入には至っていません。代わりに日本政府は、炭素税に相当する環境税を導入しているほか、再生可能エネルギーの普及拡大やエネルギー効率の向上など、温室効果ガス排出削減に向けた様々な政策を推進しています。カーボンプライシングがなかなか浸透しない理由とは?カーボンプライシングにより、二酸化炭素排出に価格が設定されることで、その排出量が明確に把握でき、排出削減の取り組みにも具体的なコストが割り当てられます。これは、排出主体が自らの排出量を減らす動機付けとなり、自発的な削減活動を促し、地球温暖化対策をより効果的に行うことを可能にします。さらに、二酸化炭素排出の削減が経済活動に直接的な費用として反映されることで、環境保護の観点が経済システムに統合されます。これにより、社会全体での温暖化対策が自然と促進されます。カーボンプライシングを通じて、クリーンエネルギーにより生産された製品やサービスに高い価値が認められ、投資を引き寄せることができれば、脱炭素社会への移行や新たな脱炭素技術の開発が加速される可能性があります。反対に二酸化炭素排出に対するコスト導入により、カーボンプライシングを実施していない、または排出削減に関する規制が緩い国や地域からの輸入品が、国内市場に悪影響を及ぼすリスクがあります。これは、製造業者がより緩い規制の国へ生産拠点を移すことで、国内の製造業の基盤が弱まり、全体としての地球の二酸化炭素排出量が削減されない(炭素リーケージ)状況を引き起こす可能性があります。排出量取引制度の導入と温室効果ガス排出の上限設定は、景気の変動、原材料価格の変化、為替レートの変動など、導入時には予測しなかった市場の変動によって、事業運営が不安定になる可能性があります。日本で広くカーボンプライシングを導入することは、多くの懸念を伴います。気候変動対策の重要性が高まる中、効果的な政策を策定・実施するための国内での議論が続けられていますが、導入するには産業界の抵抗があります。前述の通り、エネルギー集約型の産業からは、カーボンプライシングによるコスト増加が国際競争力の低下につながるという懸念があります。エネルギー価格の上昇を招き、消費者への影響や経済全体への悪影響があるため、政策導入に対する強い抵抗が存在します。またカーボンプライシングが低所得者に不釣り合いな負担をかけるという懸念があります。エネルギー費用の相対的な増加は、低所得家庭にとって重い負担となり得ます。気候変動に対する緊急性に対する一般国民の理解が不十分であるため、社会的な支持を得ることも困難な状況だけでなく、日本はエネルギー資源に乏しく、再生可能エネルギーへの依存度を高める必要がありますが、そのための技術開発やインフラ整備が追いついていないことにも留意が必要です。炭素税導入の行方、環境省と経済産業省の見解はいかに2021年8月に、環境省は2022年度の税制改正に向けて炭素税の正式な導入を提案しました。この提案では、炭素税の導入に加え、企業に二酸化炭素排出の上限を設定し、その上限を超える場合には排出権を市場で購入する必要がある排出量取引制度など、排出削減を義務付ける政策を推進しています。これらの政策により省エネルギーが促進されれば、中長期的にはエネルギーコストが削減され、さらに脱炭素技術の海外輸出を通じて経済成長に寄与すると考えられています。一方で経済産業省は、企業に新たなコストが発生することを理由に、炭素税の導入に対して慎重な姿勢を取っています。2021年8月5日に公開された経済産業省によるカーボンプライシング導入のための中間整理案では、省エネルギーや再生可能エネルギーの活用によって達成された二酸化炭素削減量を国が認証し、削減目標を達成できなかった企業が購入可能なカーボン・クレジット市場の設立が提案されました。日本では、J-クレジット制度など既存のクレジット(二酸化炭素削減量)取引制度がありますが、これらのクレジットを新設される市場でも取引可能にすることを目指し、2022年に試験運用が計画されました。炭素税導入による企業負担の増加や低所得者層への影響を考慮しながら、経済産業省は炭素税が経済成長にどのように寄与するかを注意深く検討している状況です。日本のカーボンプライシング導入の展望世界銀行の報告によれば、2022年4月時点で、68の国と地域がカーボンプライシングを採用しています。これには、36の国と地域で実施されている炭素税と、32の国と地域で導入されている排出量取引制度が含まれます。この取り組みにより、カーボンプライシングからの収益は2020年比で約60%増の約840億ドルに上がりました。カーボンプライシングを導入している主要な国と地域には、日本、韓国、欧州連合(EU)、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアがあります。これらの国々と地域の一部では炭素税が導入されており、また多くの場合は、排出量取引制度(ETS)やエネルギー税も併せて実施されています。カーボンプライシングは、地域によってその形態や負担の程度が異なるものの、気候変動対策のための重要な政策ツールとして認識されているため、必然的に日本も国家レベルでの導入もそう遠くありません、現に日本では、東京都や埼玉県で既に導入されている「排出量取引制度」は、2026年度から国レベルでの導入が検討されています。特に、化石燃料の使用が多い電力会社には、2033年度から段階的に排出枠が割り当てられ、排出削減への負担が課される予定です。国内での排出量取引制度の拡張により、以前は予測できなかった市場の変動によって排出枠の管理が困難になる場合、国外のクレジットを利用する必要がありました。しかし、この制度が国内の事業者間での取引を促進することで、二酸化炭素排出量のさらなる削減や脱炭素化への投資が進むことが期待されています。